3月25日(木)夜遅くにJaroslav Šaroun(ヤロスラフ・シャロウン)先生が急逝されました。
誕生日まであと4ヶ月…、77歳でいらっしゃいました。
亡くなる2日前、3月23日火曜日 17:46…先生から電話が入り、ほんの数分でしたがお話をしたばかりでした。
作曲家であり、有能なピアニストで、謙虚で、優しく厳しく、縁の下の力持ちでいる事が自身の大きな誇りで、子供のままの純心で可愛らしい方でした。
先輩方、同僚達、学生、ご近所、誰からも親しまれ、敬われるという、本当に貴重な、稀な存在でした。
沢山のものに興味を持って接し、天文学に詳しく、養蜂家としても知られていました。
蜂の話になると時間がいくらあっても足りませんでした。
私にとって師であり、相棒であり、父であり、兄であり……いや、そう言う言葉で表せる立場を超えた存在でした。
最後の最後まで、ご家族への思いと共に、私の事も気にかけて下さって…、先生との出会いは私の人生で大きな大きな奇跡でした。感謝の思いが溢れて溢れて止まりません。
チェコが私の第二の故郷となったのは、先生と過ごした沢山の時間のおかげです。
「君は何故 僕たちの音楽をここまで理解出来るのか?」
そう言って私の歌の中に込められる「何か」に非常に興味を持って下さいました。
コンサートの準備をしながら、演奏旅行をしながら、講習会で共に講師を勤めながら、ポロポロと質問を投げかけられ、私の発する言葉にいつもニュートラルな立場で耳を傾けて下さいました。
何を話しても、誰かを批判の目で見る事もなく、私を猫可愛がりする事もなく、自分の主張をガンガン述べるでもなく、非常に話のし易い空気が常にそこにありました。
強い強い思いを持ちながらも、それを抑え込んで生きる事に慣れていた私は、開放前までのチェコ人の日常に近い思いで日々を過ごしていたのかもしれません。
日本を出る前は、もうギリギリの所にいる事を感じていました。
眠ると、空を飛ぶ夢、自分の顔や目が溶ける夢を見ていて、あまりに頻繁だったので、今でもその映像、感覚はハッキリと思い出せます。
意を決してチェコに飛び込み、先生に出会えた事で、私は自分の寿命を伸ばしたと思っています。
音楽の中で自由になり、先生との会話の中で、私は自分を少しづつ客観的に見つめようと思い始め、少しづつ好きになり、認め始め…。
そうなってくると、押し殺したものを吐き出すと言う表現が段々苦しくなり、「自分の音楽・表現」が解らないと言う状況に陥り、ここ数年、私は別の世界が見たくてヨーロッパを放浪しています。
この歳になって新しく言語を学ぶ必要があったり、歳のせいか思っても即座に動けない自分がいるので、自分でも何をやっているんだろうと思う事しばしばで、先生にも心配をかけていました。
この度の事で友人からもらったメールに、先生が
「道代の内側、奥深くには性能の良いコンパスがあるんだよ。彼女は彷徨ってなんか無い!かならず自分の行く場所を見つけて、かならず必要なものを手にすることができるよ!」
と仰っていたと書かれていました。
ただ彷徨って、手探りのこの時も、先生は私を信頼をして下さっていたんだと、号泣でした。
上手く行っている時には、放っておいても人は集まってきます。
今は、私を心配している人達が、「新しい事になど目を向けずに、これまでの業績がない訳じゃないんだから、余生を考え、落ち着くことを考えるべきだ」…と色々意見下さいます。
先生は、何も意見せず、ただ私を信じて、協力し…、しかし、最後の最後まで一番心配して下さってました。
訃報を受けた時には、人生の大きな柱を失ったと思いましたが、友人のメールを読んで、先生はこれから先も私の大きな支えでいて下さると強く強く感じました。
先生、本当に本当にありがとうございました。
貴方に出会えた奇跡に、心から感謝します。
写真は、2001年日本でのコンサートの合間に知人が連れて行ってくれた江ノ島での写真です。写真だとどうしても色が違ってしまいますが、素晴らしい夕焼けでした。
海の無いチェコに住む先生、太陽の光に魅せられて暫し立ちすくんで居られました。
この後、「道代!ここで一緒に写真を撮ろう!」と言われ、先生と手を繋いで写真を撮りました。
あの雲の、空の向こうに逝かれたんですね。。。。
状況が落ち着いたら…と話してましたよね。
。。。もう一度、会いたかったです。
1993年、プラハ芸術アカデミーの2005教室でお目にかかってから、足掛け28年、一緒に乗ったステージは悠に1000を超えます。
先生と沢山の素晴らしい時間を共にできた事に心から感謝しています。
私は、私のコンパスの性能を信じて、我が道を進みます。
あの雲の、空の向こうに行った時に、先生に 生き生きとその後のお話ができる様に…。
先生…、どうぞどうぞ、安らかにお眠り下さい。
Michiyo KEIKO