Michiyo’s 『道』 BLOG!

こんにちは。慶児道代です。私のブログへようこそ!

Má drahá Prof. Naděžda Kniplová.(クニプロヴァー先生…追悼演奏会に向けて…)

5月5日に2020年1月14に亡くなったクニプロヴァー先生の追悼演奏会が開かれます。




クニプロヴァー先生は、私がヨーロッパで最初にお世話になった先生です。
私はプラハに…全く情報なしで、飛び込んだだけでした。
プラハ芸術アカデミーへ行って、「この学校で学びたいのですが…」と言ったら、入学願書を渡され、入試まで、どなたかにご指導頂きたいのですが…と言ったら、当時 声楽学科長であったクニプロヴァー先生のご自宅の電話番号を下さいました。

1993年の事です。まだメールも携帯もなく、電話はしょっちゅう混線して受話器を持った4人で「どっちのラインを切るか!?」で揉める様な時代でした。


お電話して「まず会いましょう」と言われた期日に学校に行き、廊下(と言っても広い!)の片隅にあるソファーに座って、お話をさせて頂いたのが最初でした。
「とりあえず、アリア2曲、歌曲2曲を準備して、2週間後に歌って下さい。」

「どこで練習しよう?」と思っていたら、先生のクラスの1年生が我々の話に聞き耳を立てていて(立てる必要はなかったね!先生の声は無茶苦茶デカかったので!笑)私は寮の練習室で練習できるから、と、自分の練習室カードを貸してくれたのでした。Jana Novákováと書かれたカードの裏に「二週間Michiyo Keikoに貸します。」と書いて…。これが通る時代だったんですよね、1993年…平和でした。


かくして私は、毎日大学の練習室に潜り込んで練習し、二週間後…。

 

4曲のうち、1曲目の半分で止められ…「ダメか…」と思ったら、「これで充分!他を聴く必要は無いわ!私がレッスンしましょう!ウチへ来なさい!」と!!!!!

 

この後、先生と学部長の推薦を頂けて、チェコ政府の給費奨学生として芸術アカデミーで学び、ドヴォルザークの国際音楽コンクール日本人初の入賞者となり、コンクールがきっかけでコンサートに呼ばれる様になり、劇場での初役を得、専属契約に繋がり…という目の前がドンドン変化する怒涛の2年が始まりました。

 

劇場で初役の稽古が始まった頃、チェコ政府の奨学金はプラハで学んでいる分には充分だったのですが、チェコ北部のリベレツまでバスで通いながら…となると、見る見る金欠状態になってしまっていました。本番を踏んで初めて出演料が頂けるわけで…、それまでの期間はなんとかやりくりせねばなりません。自ずと食費を削る様になり…、プラハに戻って週末にレッスンして頂く度に、「道代!ちゃんと食べてる?」と言われ、「食べています!」と言っていましたが、実はパンとお茶だけの日もあったりでした。

 

ある日!「食べています!」と言った直後、眩暈がしてその場にぶっ倒れ、先生が「ホラ!やっぱり!上のキッチンにいらっしゃい!」と…(先生のお宅は山の斜面に立っていました)

キッチンに行くと、「昨日買い物したばかりで良かったわ。道代に全部持たせるからね。しっかり食べなさいよ!」と大きな買い物袋2つに冷蔵庫の中身を全て詰め込んで、持たせて下さいました。

「そこに座って!今日は夕方来客があるから、キノコソースのラザニアを作ってあるのよ。私のコレはいつも大好評なのよ!食べなさい!」
私は恥ずかしくて「いえ、それは頂けません。」と言ってたんですが、先生がオーブンの扉を開けた途端!まぁ…いい匂いがして…私はフラフラと椅子に座り込んでしまいました。
「ほら!美味しいから!食べなさい!」

かくして…その美味しいキノコソースのラザニアを、私はナント!二人分ペロリと平らげたのでした。

 

とんでもなく恥ずかしかったのと、無茶苦茶ありがたかったのと、色んな感情が全て一緒になって、この日の事は、忘れられない思い出になっています。

 


先生は、メタリックな重厚な重い響きの持ち主でワーグナー歌いとして、あの社会主義時代にチェコ国外で大きな活躍をされた方でした。
カラヤンの目に止まり、1967年ザルツブルグ音楽祭で歌った事をきっかけに、ワーグナー(ブリュンヒルダ全3作、イゾルデ、クンドリ、ゼンタ、オルトゥルートなど)に留まらず、トスカ、トゥーランドット、マクベス夫人、レオノーラ(フィデリオ)、で世界を巡り、チェコ物では、コステルニチカ、エミリア・マルティ、リブシェ、シャールカ、エヴァ と言ったドラマティック・ソプラノの役を歌った方でした。




チェコに行ったばかりの私には、とんでもなく異次元の役柄ばかりで、先生と私では楽器が違い過ぎるからか、先生の説明を聞いても理解不能な時がありました。
結構言いたい事はハッキリ口にしてしまう私は、自分でゆっくり検証しないと身体に落とし込めないと思うと、ハッキリ先生に言ってレッスン途中で失礼したことも数回あります。「道代は石頭だ!」とよく言われましたが、「そうおっしゃる先生も石頭ですね。」と言って…笑!

 

結局3年お世話になり、劇場で専属をしながら、喉を壊して劇場を去る先輩同僚を数名見て、新しい視点から自分という楽器をじっくり見る必要を感じ、自分で次の先生を探し、クニプロヴァー先生にお礼を言って、次の先生を見つけたとご報告し離れさせていただきました。

先生にとっては、青天の霹靂だったそうです。

私には「私は貴方に充分な基礎を教えたから、貴方はきっと自分でその先生が合っているかどうか判断できるでしょう。」とおっしゃって、非常に穏やかに送り出して下さり、私はその対応に大変感動していましたが、実は私が去った事をしばらく寂しく思っていらしたそうです。

 

クニプロヴァー先生は、本当にがっしりとした男性顔負けの骨格を持っていらっしゃいました。肩幅も広く、胸も厚く、背も高く…、私は先生の後に数名の先生に教わりましたが、最初の2人の女の先生方は、私よりも小柄な方達でした。(キャリアは無茶苦茶デカかったですが…)その後の男性の先生方も街の人混みに入ると紛れるような普通の背格好でした。

私にとって、この楽器(身体・体格・性別)の違う先生方にそれぞれの角度から指導していただけた事で、視野と理解が大きく広がり、深まったと感じています。

 


ドラマティック・ソプラノのパートは、私の感覚だと計算しないと歌い切れないと思うのですが、先生の楽器は、やはり特別だったのだと思います。天性の重厚な響きでドラマティック・ソプラノとして、世界的なキャリアを積まれました。

先生からは、色々なステージでの思い出話を伺いましたが、どれも桁違いでした。演ずる事、そこにその人物が本当に生きている事が、先生にとって大切な事だったと感じました。歌う事が完全に演技の一部になっていたのだと思います。

 

プラハの国民劇場で歌い始めた頃、まだ先生を覚えている方たちが結構いらっしゃいました。
私を気にかけて下さっていたプロンプターの方からは、先生のステージでの様子をよく伺いました。「舞台上にクニプロヴァー先生が現れた途端、空気が変わり、先生以外の出演者が見えなくなる!終演後も心が持って行かれて、現実に戻れないくらいの気迫があったのよ…。」

 

本当に凄かったんだと思います。
生の舞台を見てみたかったです…。

 


5月5日、私は、大挑戦します。
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の終幕、最後にイゾルデが歌う「Liebestod」と言われるアリアを歌います。

神がかったようなヴィジョンを歌い上げるこのアリアの後、イゾルデは天に召されるのですが、生とか、愛とか、死とか…そういうものを超えた、そういうもの全てを包み込んだ、世界…いや、宇宙を感じます。

大きかった大きかった先生に、宇宙の彼方にいる先生に、感謝と敬意が届きますように!



準備期間中、先生の門下生とグループサイトでいろいろやり取りしたのですが、とにかくエピソードの桁が違う、先生の人間の大きさ、スケールのデカさ、現実直視の世界観、やることなす事、想像を超えていらっしゃるので、全てのエピソードが異次元で 可笑しいのです。
皆んなのエピソードを読みながら、大笑いでした。


コンサートは、5月5日(金)19:00〜 プラハ芸術アカデミー、B.Marutinů ホールで行われます。

プラハ在住の方、ご都合がよろしければ、是非是非いらして下さい。